昭和48年05月03日 朝の御理解
御理解 第2節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。」
神徳は信心をすれはだれでも受ける事が出来る。しかもみてる事限りがない。しかもそれは末の世にも持って行かれ、子孫にも残る。私共の願いというものが、ここの所に置かれての信心でなからなければならんのです。信心をしておかげを頂くと言う事は、先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るという。そういう信心のおかげを受けさせて頂くと言う事が信心の焦点であり、願いでなからなければならん。
しかも信心をすれば、誰でも受ける事が出来るのですから、金光様のご信心を頂いておる者、皆んなが受けなければならんのだけれども、御神徳とは思われない、あの世にもこの世にも残してあると言った様なものを感じられないとすると、結局はそいう信心を目指していない。だからここで言われる信心というのは、ここの所を目指す信心を、信心というのだと言う事になる。
目指す所は只商売繁昌だけ、目指す所が病気平癒の事だけ、と言う様な信心では何十年たっても、あの世に持ってゆかれたり、この世に残しておけるというものにはならない。どう言う様な信心をさせて頂いたら、御神徳が受けられるだろうかと。いうならば明けても暮れても、その事を思い願い続ける信心。そういうふうに頂きますと、もう皆さんの場合なんかはすぐ分かると思うんです。
御神徳を受ける信心とは、どういう信心かと言う事が。もうここに一年も朝参りをなさっておられる方ならば、誰でも分かる事だろうと思うです。所がそれが行の上に現されていないと言う事です。先の世までも持って行かれ、子孫までも残ると。私は今朝いつものように三十分間、控えで控えさせている間に、もう感動が湧いてくるんです。喜びが湧いてくるんです。どうにも仕様がない程湧いてくるんです。
有難くなってくるんです。理屈じゃないです。その喜びの要素と言うものは一言、二言じゃなかろうと思うです。私共が、金光様の御信心を頂くようになって、この方の事の中に今日の私のこの喜びというものは、沢山な要素がある事でしょう。分からない。御神前に出らせて頂いてその有難い事を、本当に有難いとお礼申さして頂いとりましたら、「和風丸紅」と頂きました。何かテレビの何かにある様な感じがするですね。和風丸紅と言う。勿論和風というのは和らぐ風です。
平和の和と風。丸紅というのは丸を書いて中に紅という字、紅は赤です。和風というのは先日から頂いた、春風という事でしょうね。春風胎蕩とこう言う。春の風のように和らかなそういう雰囲気を持っておると。そういう和らかな雰囲気がです、私は和風というのじゃないかと思う。いうならば今日の私の、どこから湧いてくるか分からんけれども、有り難い。所謂勿体ないというか有難いとういか只々有難い。
そういう状態を和風というのではなかろうか。だからいうならば性格的に穏やかな、大人しい人というのがありますけれども。信心でいう穏やかというか和風というか、和というのはそれじゃない。どんなに短気でイライラでモヤモヤと言う様な人であっても、信心によって頂ける所の喜び、それが和です。それが賀いわゆる賀び和賀心です。だから信心によって頂くところの和らいだ風という訳でしょう。
和らいだ雰囲気を持つ事が出来ると言う事です。信心に寄って頂く。だから生まれつき穏やかというのじゃない。それにはどうでも丸紅というのが土台になっておかなければならないと言う事です。丸紅というのは和という風にも頂けましょうけれども、心と言う事です自分の心。いうなら和の心の中はです、もう真っ赤に燃えておるんだと。熱情と言う赤。心はです有難いで燃えておる。信心の熱情がたぎっておる。
だからこの様に穏やかに和らぎ賀ぶ心でおれるのだという意味だと思うのです。だから生まれつきというものじゃないでしょう。信心の有難い、勿体ないという心が心にたぎっている。それがで、例えばどんな場合であっても、所謂黙って受けられる有難く受けられる。所謂大和心である。それには私共の心の中に、信心の熱情というものが、燃えておらなければならない。その燃える心がです、たぎっておるその心が御用に打ち込ませて貰う。その喜びの燃えておるその心で、それぞれの御用が出来きて行く。
私は今日その事をですこういう有難い心がです、この有難い心がどこから来てそしてどこに帰ってゆくであろうか、いわば何処より来て何処へ帰るのであろうか。この有難い心は。皆さんはどう思われますか。この有難いという心。例えば自分の願って事が成就したから有難い、何か自分の好きなものを貰ったから嬉しい有難い。それは自分の求めておるものを頂いたから嬉しいのでしょう、有難いのでしょう。自分の思うようになったらから有難いのでしょう。
だからその思う通りになった事から来て訳です。その喜びというものは。所が私が今朝から感じる喜びというのはです、そういうものじゃないのです。どこから湧いてくるか自分でも分からない。何が原因なのか分からない。何か訳は分からんけれども、むしゃくしゃする腹が立つという時があるでしょうあれです。それの反対です。この喜びが何処から来て、何処へ帰ってゆくのであろうか。そんなにいつも喜んでおるだけじゃはないけれども、いつの間にか又消えな行く。
結局天地の親神様のお心の中から、私の心へ伝わってきておる有難いと言う事が。だから天地から出て天地に又、私という者を通ってそして又天地へ帰って行く。私はその事を今朝から思うたら、もう本当に素晴らしい事だなぁと有難い事だなぁと。そして今日御理解二節を頂いてみてです、ははぁあの世にも持ってゆけこの世にも残しておけるという程しのものはです、何処から来て何処へ去っていくか分からない程しのもの。
それを煎じ詰めるとやはりこの喜びというのは、神様から出ておるのでありそして神様に又帰って行く私を通して。神様からこの喜びというものは与えられて、その喜びが又神様に帰って行く。生々流転か何かと言った言葉がありますね。ひとしずくの水が谷川に落ちて川に入って大海に入る。それが又蒸発して又天地に帰っていく。流転しておると言う様にです私共の真の喜び、是は信心を頂かなければ頂けない喜び。信心すれば誰でもおかげが受けられるというのはです、そういう喜びを受ける事なんです。
そういう喜びを受けて、そしてまた天地に帰っていっておる。成程これならあの世にも持って行けこの喜びにも残しておける筈だなと思うです。だからそういう信心とはどういう信心なのかと。いわゆる「和風丸紅」である。信心の熱情というものが心の中に真っ赤に燃えておる。心に喜びがたぎっておる。その喜びを持って銘々の手元の所を大事にしていく。自分の持場立場の所をです、信心で現していくという生き方。
私は教会の総代とか幹部とかという人達がおかげを受けると言う事はですね、総代ともなるとやはり総代として、ここの教会でいうならば、合楽教会の事を祈らなければおられない、願わなければおられない。毎朝総代さん方がここへ出て合楽教会の発展の事、いうならばその日一日の様々な行事の事に至るまでちゃっとお届けをなさいます。いうならば、教会を中心にした所の願いと言うか、祈りと言う事になって来ておる。成程これだから、総代さんはおかげ受けるだと言う事になるのです。
だからもし総代をしておってもです、そういう願いに燃え立っておらなければ駄目なんです。いわゆる玉串総代じゃ駄目なんです。総代ともなったからには、いうならば教会の事を中心に祈り願わせて貰う。しかも今申します心が燃えておる。その心で教会の発展を願う。私は昨夜からずっと考え続けさせて頂いておる事ですけれども。合楽教会は誰が作った思いますか。合楽教会は神様がお作りになったと私は思うです。
それは何故かと合楽教会を、難儀な氏子の取次助けられる場として、神様がお作りになった。いうならば大坪総一郎という人間氏子にです。かかってみえておる。私にある意味でかかってみえて、そして御自身で、金を集めたり、材木を集めたりなさる事は出来ないから、だから結局教会長である所の私にかかって、神様が御自身でお建てになったお宮である。だから神様がお建てになった、その目的というのは、難儀な氏子がここに助かる場が出来るという事が神様の願いである。
その事を祈り願ってしかも今日、私が申しますならばです。有難とうして有難とうして、しかも心の中に燃えているものを持って、神願成就のおかげを頂かせて頂きたい。そういう御用の端にでも使うて頂きたいと、燃えておるのですから、私がおかげを頂かない筈がない。そんなら総代さんでもそうです。合楽教会というのは神様が作りなさった。しかも尊い目的の為に作りなさった。その事をです神様の手にも足にもならせて下さいというて願い、教会発展を願うのですから、おかげ頂かんはずがない。
そんならこれは総代だけじゃありません。ここに御縁を頂いておる信奉者の一人々がです、自分という者を中心ではなくて、教会の発展を本当に願う真剣に願う。願うならば願う人の心の中にです、神様が有難い心今日の私が感じておるような、有難い心がです与えられるのです。神様が喜んで下さる事を思うただけでも、喜びが与えられると私がいつも申しましょう。私が本当に、まだ年端もいかん十ぐらいの時にです、真の信者というのに、私はならせて貰おうと。
私がなろうと思うたら、途端に感動が湧いてきた話やら。シモヤケのこうして腫れておる足を、いやという程友達に踏まれて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言や、腹の立つとはようなると言われておる。それをです、咄嗟の間に、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と言いよったら涙が流れてきた。それは痛いからとか、歯痒いからではなかった。どこから湧いてきたか分からない有難さであった。いわゆる涙がこぼれる程の有難さであった。その感動は神様が私に与えなさった。
神様の教えを本気で行でおる。神様の願いとされる真の信心を子供ながらも、その一人の信者に私かなろうとこう思う、その思いに神様が感動を与えて下さった。例えば合楽教会は神様がお作りになったんだ。大坪総一郎が作ったんじゃない。天地の親神様がお作りになったんだ。そこの初代教会長として、大坪総一郎を使うて下さっておるだけの事だ。だから教会の事を、本気で皆さんが願われるなら、本気で願われたら、願われるそこから喜びが与えられるでしょう。
そういう喜びがです、何処から来て、何処へ行くのか分からない程しにです。それがずっと喜びが回っておる。そういう喜びが積もり積もったものがです、あの世にも持って行け、この世にも残しておけると言う事が言えるのじゃないかと思うです。ですから願いの焦点というものが、どうぞ商売大繁昌のおかげ頂く為になら、どげな修行でもしますと言うのとは、全然だた目が違うでしょう。
そういう信心が、何十年続けてられた所でです。それではあの世に持ってゆけるような又は、子孫まで残ると言う様なお徳にはならない。信心させて頂く所の目指しというものが。この御理解二節に現れてますように、この御理解二節に現れておる御神意を対して、その御神意を目当てとして、私共の信心が進められていくならばです、それがあの世にも持ってゆけ、この世にも残しておける。
そんなら教会の事ばっかりお願いして、自分の事はお願われんかというのじゃないでしょう。教会の事と言う事は、神様が絶対お喜び頂けると確信の出来る事なら、一切同じ事です。その事をです切実に、真剣に願い祈られる所の信心を身につけていくと言う事がです。そういう信心をさせて頂けば、神徳は信心すれば誰にでも受ける事が出来ると言う信心とは、そういう信心を言うのであります。
しかもそれは限りがありません。みてると言う事がない。限りなく無尽蔵に頂けれる。お互い折角信心させて頂くのですから、只貰うたから有難いというのであっては、その貰うたものから生まれてくる喜びです。けれどもどこから湧いてくるか分からない、それは神様が与えて下さる。何処より来て何処へ帰るかと思われる程しの喜びが頂けれる、感じれるようになれる信心を、愈々身につけていきたいと思うですね。
どうぞ。